「自分で全身体験中」につき内面変化凸凹道の途中にいます🎶

カテゴリー 今 citron, 果樹園での本音

えぇ

只今

今生きる人生全部をかけて

 

我が身を世界の中に投じてずぶずぶと凸凹(凸凹デコボコ)と「わたしの弱みのぬかるみ」を進んでおります。

 

【赤裸々わたしの弱み:世界に身を置くツールである「言葉・言語」の場合】

今、言葉に関するわたしの弱みに気づいています。

それは、

 

だれか目の前でわたしに話している内容を聞き取れていないような不足感があるときがあります。

実は母語の日本語に対してもあります。聞き取り不足感。

お相手が話す内容がわたしの知らない内容のとき、英語で、日本語で、何と返答したらいいか戸惑います。

・・・?

からっぽ

お相手が話している途中でお相手の言葉が砂漠の砂に紛れていって粉々になる感覚が目の前に見えてしまいます💦

パラパラパラ・・・と。

近頃は特にそうなります。

 

【かつてはどう?】

英語についていえば、ペンシルバニアでホームステイをしていた時(当時21歳)には、そんな虚しさを覚える感覚に触れたこともなかったです。全身で英語の世界を受け止めて楽しんでいた感じも残っています。

日本にいるときには外国人アシスタントさんと仕事をしているときにも、何も躊躇わずに意見を交換し合っていました。互いに本音を語り合い易くて、対等な仕事のパートナーとして相談相手として充実していました。

一方で、初めて会計の仕事を任されることになった時、会計主任の先生(国語科教諭)が話される専門用語といいますか、ご自身の中で長年構築された会計係省略用語のようなものが頻発し、何度尋ねてもわたしたち若手は理解できずにあっぷあっぷしながら一年をやり過ごした苦い経験もあります。様々な知識や言葉のズレが生じて最後には主任との心のズレも感じていました。若気の至りでしょうか…それだけでしょうか。申し訳なさが残っています。

 

この国に来てから4年。自分の知らない内容を理解しきれていない虚しさや残念感を心に残すことがあります。

けれどもいつからか、わたし自身のなかに変化があった痕跡も残っています。

 

【弱みの素はなんでしょう】

ひとつ・・・「わたしが知らないこと」がある

本当の日本の歴史を聞かれた時に日本の歴史を学んだ教科書と違うことを豊かに話されて、答えられないことがありました。日本の文化や習慣をご自身の答え合わせのように聞かれた時、海外の人が話す日本が少々違うのです。けれどよく勉強されていますので間違っていることでもないのです。わたしが分かっていないような気がします。

 

歴史についていえばこんな会話からです。

「へいたいさんに親切にしてもらった」

「日本の工場で働いていた時に大切にされた」

「戦前の教育で日本語が大好きなおじいちゃんおばあちゃんから日本のしつけを教わってそれができる自分が嬉しい」

「日本は神話の国」

・・・

いまさらなのですが、本当の日本を自分が学ぶ時が来ていると感じています。

そうじゃないと、わたしが自分の国のことを知らないか、もしくはお相手の外国人が日本について間違ったことを言っているのかとお互いが気まずくなってしまうことが起こり得るからです。

これは、日本人同士でも起こります。

歴史観のズレなのでしょうか。

世間の考えを外れるとマズいのでしょうか。果たしてどの考えだと世間と外れているのでしょうか。

本当にわたしはそういうところが鈍いようで、分からないです。

ただあるのは、せっかく日本の良さを共有しようと話してくださる機会を逃してしまう残念さです。

 

ふたつ・・・「だんまり+にこにこ?」それじゃいやだ!なのに言葉を咄嗟に出せないわたしがある

教科書の英語だけではどうも「観光をするため英語」でとどまっていることを実感します。2000年に入ってから約20年で学術的な内容や新聞記事や書物に関わる読み物もたくさん増えていました。かつては自分で英字新聞を手に入れたり、休日または夜間、図書館に向かって英語の本をコピーして資料にしたりと大変でした。けれどこの準備こそわたしは至福の時間を過ごせて楽しかったんです。オリジナルで教材を作って生徒さんと共有できることが嬉しくて。かなりの自己満足でした。近頃は教科書にもマララさんや環境活動家、歴史上の人物なども学べます。その頃には教材の準備が楽になって、それもまた面白がって工夫して提示することにイキイキと感じていたのを覚えています。

その反面、「話す」の部分の表現が少々利用しにくいのです。日本を離れて海外に上陸しますと、話す表現が何よりも先に必要なのです。咄嗟に出る言葉が欲しいのです。他のアジアの人たちはすでに自国で多くの表現を日常で使い慣らして海を渡ってきています。平気で使い倒します。その逞しさ必須です。

そしてそのためには、咄嗟に言葉を発する自分の要素が肝心です。

声に出す自分です。

できれば、大事な自分の心の声を。

わたしは不足感いっぱいです。

その点で言いますと、母語を使う時のが不足感に満ちています。

自分の咄嗟の言葉を押し殺す癖がついていたからです。

 

ヘンな人って思われる

←もともとヘンかもしれないのにねっわたし

 

ちゃんとしたことを言わなくちゃいけない

←誰の常識を基準にしている?

自分基準でいいでしょ!

そう分かっているくせにねっわたし

 

他人にどう思われるか、を意識していたこと丸見えです。

母にはよく指摘されていました。

「じゃぁcitronはどうしたいの?」

その通りです、お母さん。

この意味を理解していなかったのはわたしでした。

 

さて、

高校生のころ参考書と自学の単語帳で増やした単語がようやく今、ニュースや新聞、リサーチや論文を読むと繋がります。

「観光をするため英語」では自分の考えを伝える材料が足りません。だから、笑顔で済まして続かないといったことが起こります。

心の中に考えている論理的な事を伝える間もなく

 

I’m thinking…(何ていったらいいか考え中)状態=だんまり+にこにこ

 

こうなってしまうと「可笑しなわたし」という自分を作ることになります。

 

辛辣すぎて聞きづてならないですね。

わたしのことです。

だんまり+にこにこ・・・(・・?

 

実際にはいつもいつもそんなことばかりではないのですが、そういうことがあったときに残念な気持ちが膨らんでしまうんです。

 

【じゃぁ、どうしたいの?といいますと】

自分の考えていることや知識をちゃんと表現して伝えたいです。

できれば日本を誤解させたままにせず本当の日本を伝えたいです。

足りないのは

なんとか伝えようとする自分

わたしにとっていまだに足りないものです。

 

「観光をするため英語」では、今のわたしが英語を使って生きていくには不足です。

そうなんです。

生きていく場所だから不足感や残念感が浮かんできているんです。

「ちゃんとした英語を使わなくちゃいけない・・・」

ほんとにそうかな?

 

【今気づいている良い兆し】

この

 

\ちゃんと/

 

この国に来て使う頻度が下がっています。

かなり意図的に減ってきています。

こどもにも使わないようにしている自分を分かっています。

自分の言動にも。

この国では少々割が合わない気がしています。

 

ちゃんと英語の文法通りにしゃべらなくていいから、伝える

 

こんな感じで

ちゃんとじゃなくていいから・・・してみる

に変わっています。

むしろ

面白がって…しよう

楽しんじゃって…しちゃおう

ご機嫌で…していよう

気合いは要らない

 

こういう声掛け(自分にも)に変わっていました。

 

そして

決して投げやりでもなく

バサバサと大雑把じゃなくて

あきらめやガサツさじゃなくて

ていねいにやんわりとおだやかに。

時間はたっぷりあるから。

だれも気に留めていないから。

自分はこう、でいるとお互い心地いいから。

 

だから

ガチャガチャ

ワチャワチャ

エキサイティーング!

そんな日常ではないんです。

日本の楽しみ方を知っている10代の子どもたちは退屈気味かもしれません。

その一方で

おだやか

まったり

やんわりな日々。

「自分と会話」が増えるわけです。

自分はこうだけど、あなたは?

お互いに違ってOK面白い

 

ずぶずぶデコボコ自分の弱み

拾い上げてみるといっぱいあります。

笑っちゃう。

ね、ねりーさんのいつも通りがお手本です🌲

by citron