とことこ生きてる 自分で生きてる

カテゴリー 今 citron, 過去 citron

☆本記事ぐだぐだ2000字越えにつき時間のあるときにおつきあいくださいね。

 

自分で生きていける女性になりなさいよ

 

主婦の母に言われても、ぴんとは来なかった。

スチュワーデス【今で言うCA:飛行機のキャビンアテンダント】になろうかな

小学校高学年、中学校時代の頭の隅っこにあった。

もうそうなる気でもいた。

そのころで言うCA【キャビンアテンダント:飛行機の旅客乗務員】のことだが、何が発端かは覚えていない。背が高いことがコンプレックスでいた頃背が生かせる職業があると知ったこと、笑顔がいいねと言われたこと、人から見た自分を自分で決めていたかもしれない。けれど悪くはない選択だと思っていた。

それなのに…

中学の卒業アルバムには「普通の兼業主婦、または福祉の仕事」と書いた。

今でも覚えている。

本音を避けたことを。

正直に書くことを避けて。

その頃「普通に生きること」の難しさを母と喋ったことをヒントにしてそう書いたんだ。

中学生時代のわたしは(人間は普通に暮らすということが一番難しいんだ)ということをすごく感じていたことを聞いてもらったんだ。わたしは何もなく平たく生きていくことなど無いんだろうと今でも覚悟している。中学生の頃からそんなことを考えていたとは少し驚いている。今の自分に繋がっているから。

そこから「普通の」だったりそのころ注目され始めていた「福祉」という言葉を駆使しただけだった。人に惜しみなく笑顔を送ることはわたしにとって苦じゃないんだという自覚はある。ただその他の隠しきれない違和感からの感情が顔に出たこともある。わたしが「人間くさい」と上司に言われたのもそこに関係しているかもしれない。(違和感は表現しちゃいけないのかな)という疑問もあったかもしれない。違和感の伝え方をちゃんと知りたかったかもしれない。とにかく「普通の」自分でいなくちゃいけないと自分を必死に「世の中・世間」という束に巻き付けようとしていたことが自分の中に見えてしまった…

(セカオワ『RPG』大好きです)

 

また別の機会に母と話したことがヒントになっていた。

母がわたしと妹の「母親」になる前の職業「検査技師」になる前の話。

そして母は、わたしの入学した高等学校と並ぶもう一方の学校の卒業生だったというのはちょっと違うことが発覚した。

在学中に家計を支えるためその学校の夜間部に移籍したという事実。

子どもで無知なわたしはちょっとしたショックを受けた。

母と同じレベルの学校に行けることがひそかに嬉しかったから。

けれど次の瞬間、母のこれまでの人生を初めて一人の人間として理解し始めた。「お母さん」じゃなかったころの人生もまた大切な人の歴史なんだ。

高校生だった当時の母は、それでも踏ん張って東京にある大学に合格してもまた断念していたと父が教えてくれた。

検査技師の学校もまた、短大卒業の資格として認められる前の時代だったため資格は得られなかったそうだ。

 

 

 

 

またまた別の話を思い出す。

わたしの19歳のお参りをした日に話してくれたこと。

母の成人式の話は今でもわたしの後悔と共に心に宿してある。

母は母自身の成人の日当日、押し入れに閉じこもっていた。祝ってくれるはずの両親(わたしのおじいちゃん、おばあちゃん)は病院療養。お金など無い。準備はできない。式が終わるまで押し入れに隠れていた。

この話は母があまりにもさらっと話していたものだから、情けないわたしは反応も薄かった。わたしたち姉妹が成人式の時にはとても思い入れを持って用意をしていてくれた。娘の晴れ着姿を見つめていた気持ちも分かっていた。わたしたち姉妹はそれを重く感じて我儘(わがまま)な態度を見せた。これがわたしのこの先も抱えて手放さない大きな後悔。わたしの小学校時代に父が家を建て市内で転校も経験していたから、その市の成人式会場は多くの知り合いと再会できるパーティ会場のようなものだった。式典にたどり着く前に多くの再会を果たし、入り口付近で時を過ごしてしまった。それを知った母はがっかりしていたが、今頃になって恥ずかしいほどに母の気持ちを理解できなかった。わたしの場合は、両親への感謝をこの場で示す絶好のチャンスだったんだということ。それさえもできなかった薄っぺらい、名前だけは偉そうな大学生の成人だったということ…

 

その後の母は看護学校に通い検査技師となる。自動車教習所で父に出会い結婚してわたしの託児所での出来事を機に【また後日、過去の記事にリンクしましょっ】主婦を貫いた。わたしはそこからの母しか知らないでいた。徹底的にお母さんでいてくれた。PTA役員、町の係、習い事の送迎、わたしたちの相談相手。「ごはん作りは好きじゃないよ。けどしょうがない!みんな生きてるもんねぇっ」とは言ってたね。

 

自分で生きられる女性になりなさいよ

 

 

高校卒業間近のわたしは

「スチュワーデスじゃあないなっしとろん(わたしです)は、幼稚園の先生じゃない?」

高校の卒業の頃になると、人の未来を占うような同級生や周りの大人に遭遇して、へらへらして聴いていた。へらへらしている自分で自分の芯を隠していた。心の中に芯はあった。弁の立つ人たちの中で上手く語れない自分を圧し込めていた。へらへらの裏の芯は変わっていないなという自分にも案外ほっとしている。上手な言葉より動いてみる自分があることはやっと分かった。

そう

ちがうんだよ

一人でも生きていける自分

まだ見ぬ地球儀で見る世界の中にいる自分のイメージが離れない

いつしか「自分で」の意味が「独り身で」にすり替わっていたりして

家庭を持ったらきっとわたしの性格じゃ両立できない

看護師か教師になるなら結婚しない!?(どういうわたし?)

世界を回って生きている自分

だんだんと

結婚は選択肢から外していた

これはずっと心の中で繰り返して

動き回って

人々に出会えて

ここまで来た

 

そして

結果

教師となっても

結婚してしまった

ひゃっ

 

そして

海を渡って

わたしにも守る家族があるんだという不思議の中にいる

今ホスピタリティ【接客業】の世界のほんの入り口

 

 

わたしが日本を離れる前後

母は世界を回る赤十字の看護師になりたかったんだ

ということを教えてくれた

また

アメリカに行って看護の勉強がしたかった頃もあったとも

脈々となにか少しずつ変形しながらも繋がっているものなんだろうか

本当に自分で生きていける女性でいることを

母こそが備えていたのではないかという伏線を貼って

今も現役ナース

苦労は絶えない

けど

受け流して

そーよそよ♪(おそらく風にただようイメージ言葉か?母らしい)

だそうだ

「実は入社当時から口の悪い同僚がいるのよねぇ」と

しとろんさん(娘のわたしのことです)がバシッと言った【2020年末1か月勤務の顛末に関する記事】ならわたしも言ってみようかなぁ」なんて

勤務20年が経った母

今頃言うんだもん

どこにでもいます↓このような人いるんです

「どうして今頃就職してくるの?」

母52歳で再就職の際のこと「だから…なに?」などと母は決して言わない

今は今で

「いつまで働くんですかぁ?」

母自身72歳やめようとしたら事務局が残ってと言ってくれて…

「情に脆いわたし」

自分で言ってる

嫌だよねぇ

嫌な思いしながら働くのって

そんなことには動じない母

自分の引き際は自分で分かっている

口の悪い人は強さのある人に負けじと吠えるもの

弱さを必死で隠すもの

強し

 

自分で生きてる女性

お誕生日おめでとう 73

by citron