湖の入り口
レンタカードライブ
年に一度のレンタカードライブ

これは2件目のお店「kiddy」ミニサイズにした
コーンもミニで可愛らしい
ベリー狩りのお店が作る本物のソフトクリームを食べよう
ここ半年ほど
本物の…にこだわって
箱入りアイスクリームは買わないぞ~
案外過ごせた
そして
下調べしておいた
2つのお店に行って
本物
目の前で
生のベリーをスコップにドカッと
ベリーの種類:
イチゴ
ブルベリ
ラズベリ
ボイズンベリ
アプリコット
ブラックベリ
なぜかバナナも
一軒目:濃厚ミルクのアイスクリームを3すくいほど混ぜて
二件目:濃厚フローズンヨーグルトを2すくいほど混ぜて
どちらのお店ももぐるぐると作られるのを見届けて
4人の口にそれぞれ溶けて行った
こういう我慢なら
できるもんだなっ
自分たちで感心した

いつもどおり
ビーチによって
貝殻あつめて
打ち寄せる波にびびって
のんびり
を実行した
帰り道
今日行った街を観てどうだった?
「今暮らしている街、サイコー!」
なんと娘
「夕方にがら~んとして寂しいからやっぱり今住んでいるところがいいな」
これは息子らしい
「仕事の場所次第かな」
Daさんはそりゃそうだな!
わたし?
どこに住んでいても
世界の中にいる感覚があればいい
ということで
今暮らしている場所を見直す旅にもなった
レンタカードライブ
また来年!
実行できることを願っている
by citron
【裏しとろん】
そうだ
2006年5月。わたしは34歳。カナダでは、ストローラー(「ベビーカー」では通じなかったな)が手放せなくていつも1歳半の息子を乗せて移動していた。あのころトロントの街中は段差も多くて、タイヤのしっかりしたストローラーに思い切って買い替えて、大きな箱に入ったまま店員さんが渡すものだから、なんとか道具を借りて店先で自分たちで組み立てた。これでよし!けれど、路面電車に乗るにもステップがあって、バスに乗るにも入り口が狭くて。それでもいつも出かけるのが楽しかった。その理由はしっかりと胸に残っている。
カナダに上陸して間もない頃、あるときDaさんの通う学校へわたしと息子心細く出かけた。大通りを行くときはストローラーを押しながら息子といっぱい話しをしながら意気揚々大股できょろきょろと街を眺めながら向かった。駅に到着。足が止まり、(もう、引き返そうかな…)と、尻込みするほどの人ごみ。今思えばよくあの人ごみに突入したなと苦笑いの思い出し笑い。それでもいい思い出しかない。いや、ヒヤッとした瞬間から記憶は始まる。息子の乗ったストローラーがふたりの男性に持ち上げられたんだ。こわかったよ。連れて行かれちゃう…お母さん魂でふんどりかえさなくちゃっ。キッ。なにくそ~。。。とはならなかった。スタスタスタとふたりは息子ごとストローラーを抱え上げて「ゆっくりきてください」とわたしに言った。階段の下で人ごみの中、息子のために人の波の防波堤となってストローラーの脇をかためてくれていて、わたしが追いつくのを待っていた。そして、「良い一日を!」と消えていった。あの頃のブログにも書いたかな。わたしは、そういうことのできる人間を見習ってわたしにもあるそういう気持ちを行動に示そうとあらためて誓ったんだ。けれど、砕けた経験のが多い。息子が大きくなってからのこと、お若いお母さんに「結構ですっ」とつっぱねられた。国連の中満泉さんも『危機の現場に立つ』で記していたように。「あんたは見てて」とバスの運転手の女性が運転席から離れてストローラーを降ろしてくれた経験も一度や二度じゃない。バスの中でストローラーが揺れ動かないように端を支えていてくれた人の指先も忘れていない。その後に出会った温かい心を見せてくださった人たちとは、なにか心根の部分で、わたしの仕方は違うのかなと躊躇ってしまう時期もあった。けれど、心根を受け取る側(子育てのお母さん)の心根は果たしてどうなのかな。心の奥底では「大丈夫ですか」と尋ねたいところを押し留めていた。そういう自分も、何か違うんだな。
世界に暮らすというのは、人の心根の部分に容赦なく触れる日々ということ。素直に感動したり感謝したりするしかないこと。助けてほしいと言えること。伝わらない言葉を互いに持ち合わせるからこそ、届けたい気持ちを行動にして伝えられること。Noと言われた理由のそれ以外、他意は無くさっぱりとしていること。わたしにも他意がないことを理解してもらえること。つまり「良かれと思って」のすれ違いが少ないこと。探り探りではなく、お互いが分かり合うために確認する程度のこと。(こうすると変かな)は変じゃないこと。(こうしたらいいかな)はしたらいいこと。
世界にいれば英語が話せるようになる、という憧れのファッションを手に入れるようなことではないこと。世界にいる人との唯一の共通道具でしかないとあらためて何度も気付かされる。わたしたちにとって当たり前の「日本語」は履歴書の立派な「特技」欄に記入すべきアイテムで、英語圏の人は第2言語の取得に苦しんでいる人も多い事実があることは新聞でも議論になっている。
世界に暮らす人は学校で習うテストの頭が良いのではないこと。(勉強の頭の良い人もいる。たくさんいる。そして生きている人間同士の温かさ優しさの足りない人もいる。たくさんいる。日本人と分かると冷たい人も。これは論外。)「こうでなくちゃ」の壁はもともとなくて考えの幅や選択肢が思うように許されているということ。脳みそが、バターを溶かすように伸ばすようにパンの上で味が広がっていく感覚になる。自分の可能性を、もうちょっと信じてもいいんじゃないかなと思える自由に出会える。
世界に向かっていくのはお金があるということでは決してないこと。「お金お金言うのは悪」なのではなく、お金のことを大事に声に出して考えることができるということ。未来が見えてくる道具となって、未来のことを今とつなげて考えるおはじきのように。
何かと例えが幼いけれども、わたしの頭は、わたしの腹は、決まっているものが多い。自分自身の自分勝手な自由はとっても怖がっているくせに、だれかが誰かにとってぴったりなことに出会えて進んでいけるなら喜んで勝手なことをしたい。おかしなcitron哲学が振り返って面白い状況になっていることを密かに見つめている。
by 裏しとろん