
母の庭から届く
夜になって、
娘がポツンというんだよ。
学校が休校になる直前のこと、放課後のバドミントンクラブに体験入部したんだ。
あれから3か月経って、ポツンと。
「せっかく一歩、試しに始めてみたんだけど、なかなか(みんなの中に)入れなかったし、上手く打てなくて。なんだか嫌だった。人が、ね…。」
やっと聞けた。
娘のポツリをやっと聞けたんだ。
切なくてちくんとした。
つい同じ気持ちになってしまう性分。
前職を終えて、仕事を離れて【過去の記事:固定ページより】切り離し成功していたから(ようやく消えたな…。)と思っていたんだけど、次はいよいよ我が子の番。
いいよいいよ。
覚悟できている。
軽はずみなことを言って聞かせるつもりはないよ。
娘が自分で歩き出すのを見たいんだ。
・・・
毎日を生きている気分で過ごしたいねと思っている。
多少の差はあれ、心がぶるんとぶれそうな嫌な気分を運ぶ瞬間は容赦なく吹きすさぶ。
そういうときは容赦なくげんなりする。
いや、激しく揺さぶられる感じで、ぐわんとげんなりする。
げんなりしている、わたし。
わたしに言って聞かせる。
そういうの、好きじゃないんだよね、わたし。
その事象が我が身に起こることが好きじゃないんだと、自分と自分とで確認し合う。
その後は、
ま、いっか
人の、例えばこのブログではわたしの、しあわせ、という言葉にぞわぞわする人は、その原因はなにかな。わたしにも、それは何かは教えてほしいけれども、しあわせの定義が違うことは判る。まだ「ぞわぞわするんだよ、citron!」と言ってもらったことがないので、言われるまで待っている。その間もやっぱりわたしの中のしあわせは積み重ねていくだろう。誰も止めるものじゃない。今日もシャワーのあったかいお湯が出て良かったとか、この三日月と金星の位置関係サイコー!とか。それも煩悩か。
【しあわせしあわせってうるさいよ】
たしかに、何度でも出てくる、このブログ。
人が欲しがるものを手に入れること
一時的な快楽を得られるしあわせ
お金、社会的地位、所有物
それは相対的幸福
つまり、わたしの思う「しあわせ」じゃない。
絶対的幸福
絶対のしあわせは
/
絶対、わたしってしあわせ♪
\
(人と比べて…)
とは、まったく異なる。全く違う。
比較の無い、普遍のもの
煩悩いっぱいで、人を妬んで、羨んで、物質的な喜びを手に入れて、そんなことしている自分の本当の心を「暗い心」という。日の光(本来は仏の智慧、の意味)が容赦なく照らしたら白日の下にさらされて、まっさら「明るい心」になる。仏の教えに従おう!という話ではない。わたしは、自分と向き合う、とか、自分と会話する、に置き換えている。
「絶対のしあわせ」の後、
変わらないのは、相変わらず煩悩のある自分。そのまんま。
けれども、
間違いなく変わるのは、「底抜けに明るくなった心」心が晴れるんだ。
そうしたら、その後は感謝して生きている。
生きているうちに「絶対のしあわせ」に気づくことは、とても清々しい気分がする。比べる対象がない。強いて言えば自分の暗い心を白日の下にさらすことに似ていて、ちょいとイタイ。これは、自分で気づくことと考えている。すると底抜けの青空が見えるみたいに明るい心が現れる。silverliningも、そうかなと思う。【過去の記事:一縷の光】そしてその後は「感謝いっぱい」生きていること。それでも、煩悩が相変わらずあって、気づいて、繰り返し。
それで、「絶対のしあわせ」という言葉をちゃんと理解したくて繰り返すんだ。仏の教え。親鸞さん。善いも悪いも祖母から聞いた、お盆にはお経で覚えた言葉はここからだから、染みついていて、しょうがない。
かなり、自分に都合よく解釈している。
けれど、自分なりにしっくりくる。
自分の中に噴き出した暗い心に向き合う娘。
明るい光と自分の心に気づく日が訪れるかな。

おやすみまた朝!
by citron